パントラル大三元 - 7/15
・アイスピックとカッターナイフを買った。適切な用途の通りに使うつもりしかないが、絵面だけ見るとこれから人を殺しに行く奴みたいだな。
・殺さないし死にもしない。
・そういえばジェイソンってチェーンソーで人を殺したことないらしいね。この話、インターネット上で一人につき三百回ずつ言ってる気がする。
・ネット上では有名な話でもリアルの知人には全く伝わっていない、みたいなケースが多々ある。TikTokで「実はあまり知られていないこと三選」とかにまとめたらそこそこ数字取れたりしないかな。
・再生数が伸びることを「数字が取れる」とか言い出すの、ちょっと気持ち悪いかもしれない。お前はテレビマンではない。
・アイスピックとカッターナイフをリュックに忍ばせたまま、ドラッグストアへ行った。これから人を殺しに行く奴みたいだな。
・殺さないし死にもしない。
・マスクとファブリーズを買っただけで会計が1000円を越えたので、ちょっと顔がひきつった。必要な出費とはいえ辛い。
・生活するのに必要な金をもっと減らしたいと常々思っている。たぶん無理だろうなとも常々思っている。生きるって大変だな。面倒と言ってもいい。
・面倒は酒で流してしまうのに限る。かっこい〜。
・ふなぐち菊水一番しぼりを飲んだ。日本酒を飲むのは半年ぶり。水みたいに飲めるのにアルコール特有の苦味は健在でちょっとキツい。
・容器見てみたらアルコール19%だって。怖いね〜。ストロングゼロの倍以上だ。日本酒って凄いんだな。めちゃくちゃ美味いわけでもないが、耐えられないほどの不味さでもない。コスパがいい。
・コスパを語る上でパフォーマンスの方もちゃんと見てる奴は少ない。コストばかり見てないで、たまにはパフォーマンスのことも思い出してあげてください。
・スモークタンと豚トロをつまみに日本酒を飲みながら、YouTubeを垂れ流しにする金曜日。人生の全てかよ。泣いちゃう。酔っ払いは涙腺が進学校の文化部よりも緩い。
・色んな酒を美味しく飲める大人になりたいね〜。よく分からん名前のウイスキーをグビグビ飲んでる人はすごいと思う。俺はブラックニッカを飲むので精一杯だ。
・上善如水ってどんな味なんだ?名前だけ見ると『のっぴきならない事情で名門高校に男装した状態で通うことになった名家の三女』みたいな雰囲気がするけど。
・例えがオタクっぽいな。オタクだから仕方ない。なんのオタクかはよく分からないけど。強いて言えばインターネットのオタクか?最悪かよ。
・上善如水(じょうぜん じょすい)って書くと人名に見えないこともない。黒田如水とかいるし。我らが福岡の祖。黒田官兵衛と呼んだ方が伝わりやすい。
・酒とタバコの話ばかりする大人にだけはなりたくないと思ってたのに、そんな話ばかりしてる気がするな。つまんね〜大人だ。コロコロコミックの対義語か?
・脳は否定形を理解できないので、なりたくない人物像のことばかり考えているとそれに近づいてしまうらしい。Twitterで得た情報なのでたぶん全部嘘だと思う。
・インターネットは嘘で溢れている。本当なのはスクロールしてると画面の上の方からスーッと降りてくる広告だけだ。あとは全部ウソやねんこの世界。
・あの広告に名前をつけて厳罰化してほしい。パチスロのことを『回胴式遊技機』と呼ぶような感じで。三店方式、あれ絶対にアウトだと思うんだけどな。
・明日は5時起き。バイトに行かなければ。酒を飲むと必ずと言っていいほど悪夢を見るので嫌なのだが、酒を飲まないとこんなに早く眠れそうもないので仕方がない。
・酔っ払って寝るとだいたい何かに追われたり殺されたりする夢を見る。もっと都合のいい夢を見てもよくない?夢の中でも嫌な目に遭うの不条理すぎるだろ。
・眠ります。目ェ覚めてほしくないなァ〜。
7/14
・ゆるキャンの映画を観た。みんな大人になってて寂しい。いつまでも本栖高校の野クル所属でいてほしかったな。
・自分も志摩リンも酒を飲める年齢になってしまった。劇中で飲酒シーンが流れたとき、何か行けないものを見ているような気がして目を閉じてしまった。
・犬山あかりが大学生になってたことが一番驚いたかもしれない。一期の時は小学五年生だったようなので、本編から8〜10年くらい経っているようだ。
・凄いね〜。
・また身延に行きたい。そして身延まんじゅうを食べたい。あの絶妙に塩っ辛いおまんじゅうが恋しい。恋しいんだよ〜〜〜〜〜!!!!!
・10年後も付き合いのある友達ってどのくらいいるんだろう。10年前から付き合いのある友人を考えて、パッと浮かんだのが一人だけだった。毎度の事ながら自分の人脈の希薄さに驚く。
・癒しを求めてゆるキャンを観に行ったら、自分の現実と向き合わされた。野クルのみんなは社会に出て、新たな生活を始めている。俺だけが本栖高校野外活動サークルの部室に取り残されたまま。
・虚しい。今度は酒を飲みながら観たいな。たぶんめちゃくちゃ泣いちゃうと思うけど。
・ゆるキャンの話をすると目尻を熱いものがつたうはめになるので、違う話をする。夢女子の話。なんで?したいから。そっか〜。
・夢女子化する男が増えている。イケメン女子に迫られてドギマギするみたいなやつ。イケメン男子に迫られてもドギマギはしないらしい。そうなんだ〜。
・どっちかというと夢男子じゃない?夢男子かもしれない。これって「ゆめだんし」って読むんだね。「むだんし」かと思ってた。爆走夢歌も「ばくそうむか」だと思ってたし。
・本質的には美少女に母性を求める現行のオタクシーンと同じなのでは?という感じがする。夢男子は要するに受けの立場。相手から攻められ、それに対処する。相手からコミュニケーションのきっかけを与えてもらってようやく関係性を構築できる。
・能動的に他人と関わることができない人でも違和感なく恋愛のシチュエーションに移行できる。自分から女の子に関わっていくのは嫌なので、相手から関わってきてほしいという願望?
・違うかもしれない。違ったら嫌だな。違わなくてもそれはそれでめちゃくちゃ嫌だけど。
・オタクよ、どこへ行く。どこへも行くな。俺と一緒に本栖高校で死んでくれ。
・全てが嫌だ〜〜〜〜〜
隣の自意識は青い
どうしようもなく惨めな気分になる日が、一週間に一日くらいの頻度であります。
周囲の人間は勉強にバイトにサークルに忙しく、それでいて充実した(少なくとも傍目にはそう見える)毎日を送っているというのに、僕はそれらのどれ一つとして真面目に取り組まず、かといって趣味に没頭するわけでもなく、ただ漫然と過ごしている。その事実を再確認するたびに、自分はなんて無様な生活をしているのだろうと虚しくなるのです。
たとえ生活が杜撰であったとしても、打ち込めるものがあるなら幸せだったと思います。打ち込めるものがなかったとしても、まともな習慣で生活できていたら、これほど自己嫌悪に苛まれることもなかったと思います。
どうして僕はこんなにへっぽこなんでしょうか。毎日を棒に振り続け、気付けば二十歳になろうとしています。もう大人にならなければいけない年齢にもなって、そこいらの小学生にもできることさえできないなんて、情けなさすぎてもはや怒りすら覚える勢いです。
嘘です。そこまで自分に厳しい性格をしていたのなら、そもそもここまで酷いことにはなってません。
話は少し飛びますが、僕は少し前、物書きまがいのことをやっていました。といっても周りの作者に比べれば半分にも満たない文量しか書いていませんでしたし、作品の出来も決して優れているとは言い難いものだったので、あまり胸を張って書ける経歴でもありません。
この「文章を書く」という行為に、僕はたいそう打ち込みました。頭の中に漠然と浮かんできた光景を文字に起こし、それを人に読んでもらうという体験がとても嬉しかったのです。物を書くことを覚えてからしばらくの間は、授業中も登下校中も創作のことばかり考えていました。先ほど述べたとおり、お世辞にも面白いとは言えない駄作ばかり書いていましたが、それでも楽しくて仕方なかったのです。
しかし去年あたりを皮切りに、もうすっかり、何も書けなくなってしまいました。たぶんダニング・クルーガー曲線の山を越えた辺りに来たんだと思います。
少しアイデアが浮かんできても、それで一本書き上げられる気が全くしない。面白い物を書ける自信はもっとない。ちょっと書いては違和感を覚えて白紙に戻し、また少し書いては消し……というのを繰り返しているうちに、気付けば一年経っていました。これもこの前の記事で書いた、「たくさんの小さな失敗」の一部と言えるでしょう。
ちょっと前にTwitterで伸びていた漫画で、「優秀な人間を苦悩の万力で締め付けると文学がしぼり出される」というセリフがありました。僕は優秀な人間ではないので、苦悩の果てに何かが生まれることはありません。現状をうらぶれた心持ちで俯瞰することには何の意味もないのです。
そうと分かっていても、自己嫌悪の波はお構いなしにやってきます。最近では過去の自分が冷めた目をして責め立ててくる妄想をするようになりました。
でも現在の僕は過去の僕と地続きなので、彼らに責められる謂れはないと思っています。どころかこの惨憺たる状況は実質的に彼らのせいだと言えるのではないでしょうか。過去の僕がもっとしっかりした人間だったなら、ここまで思い悩むことにはならなかったはずですから。
こうやって誰かのせいにしながら、いつも僕の自己嫌悪は終わります。本当に最悪です。誰か助けてください。
嘘です。そもそも完全に自業自得なので助けてもらう余地なんてありませんし、助かったところでそれからどうすればいいのかも全く分かりません。
チンケで妙ちきりんな自分語りばかり書いていて、なんだか恥ずかしくなってきました。ぼっちは自意識が暴走しがちであるといった旨の事を比企谷八幡も言っています。八幡が言うのなら間違いないのでしょう。
本当に恥ずかしいので、ここで終わることにします。
さようなら。
塵も積もれば鬱になる
「自分で立てた目標を達成できない」というのは、実のところかなり大変なことなのではないかと思っています。今日は野菜を買いに行こう、今日は本を見に行こう、今日は散歩にでも行ってみよう等々、僕はよくその日のおおまかな予定を立てるのですが、それらの予定のうち、実際に達成されるものは三割にものぼりません。
ほかに何か予定があってできなかったとか、急に体調不良になってできなくなったとか、そういう事情ならまだいいのですが、なんとなくめんどくさいとか、予定を立てたことそのものをすっかり忘れていたとか、そういう僕自身の怠惰さによって失敗しているものが殆どです。
僕は常々、周囲の人たちから「自己肯定感が低すぎる」と言われ続けてきました。自分としては全くもって正当な評価を自身に下しているつもりなのですが、どうやらそうではないらしいのです。この文章を書いている今この時も、「自己肯定感が低いというのは『その暗い性格を何とかしろ』という意味であって、おまえが自分の優秀さを見誤っているというわけではないんだよ」と理性が囁いています。
といって、自己肯定感をそれなりに持っていた方が楽に生きられるということは、周囲の様々な実例から僕もよく知るところでした。それで一度、自らの自己肯定感を高めようと躍起になって努力していた時期があります。
なんだか胡散臭い自己啓発本を含む色々な本を読んだり、広告が虫のようにウジャウジャと湧いてくる怪しげなサイトを参考にしたり、僕なりに頑張って調べたところ、自己肯定感を上げるには「小さな目標を立てて、それを達成することを繰り返す」というルーティンが有用であるということが分かりました。ささやかな成功体験を積み重ねることで、自分に自信をつけることができるというのです。
もうこの時点で話のオチが見えてきたことと思われますが、僕はこのルーティンが全くできなかったので、自己肯定感がぜんぜん向上しませんでした。
小さな成功の繰り返しが自己肯定感を高めるというのならば、小さな失敗の繰り返しがどんな結果になるのかは火を見るよりも明らかでしょう。結局、僕はますます僕自身に失望しただけで終わりました。ひどい藪蛇です。
そもそも自己肯定とは「自分で認められるくらい立派な自分になろう」ではなく「ダメなところもあるけどそれでも自分を認めよう」という話なので、僕の努力は全くの空回りであったと言わざるを得ません。僕の自己肯定感が向上するのはもっと先の話になりそうです。
なんなら僕は一生この性格のままなのかもしれませんが、なんだかんだ、こんな自分も悪くないのではないかと思うようになってきました。「自己肯定感のない自分を肯定する」って、なんか詰みセーブみたいでウケますね。
さようなら。
ふゆびより(未遂) - 10/19の雑記
肌寒い季節になりました。
つい先日まで気温は余裕で20℃台後半を記録していたというのに、気が付けば15℃なんてのも珍しくなくなってしまいました。令和は一体いつまで夏の気分でいやがるんだとは確かに思っていましたが、それにしたってこの気温変化はやりすぎです。
この感じはアレに似てますね。風呂を貯めようと蛇口をひねったら思ったよりも熱くて、慌てて冷水を全開にしたら一気に冷えてしまった時にそっくりです。今は給湯器で自動で湯を張るのが主流なので、たぶんこれに共感してくれる人はあまりいないでしょう。
寒くなるというのはいいことです。寒さは外ではしゃいでる方々をもれなく駆逐してくれます。それにこの時期は虫が湧きません。これらの点だけでも冬は残りの三季に対し大きなアドバンテージを得ていると言えるでしょう。
夏はダメです。バカも虫もマサゴの数ほどうじゃうじゃ湧き出てきます。おまけに暑さというものには天井がありません。寒いのはいくらでも着込んで対策できますが、暑いのは全裸になったって暑いですし、そもそも全裸で外に出てはただの変態でしかありません。
僕のような陰キャはだいたい冬が好きと相場が決まっているものです。冬になるとパリピ御用達のイベントというものはほとんどなく、先述したように外で騒ぐ人種がみんな死滅してしまいますから、我々日陰者にとってこんなに生きやすい時期もありません。
雪が降っている様子や夕暮れ時を写真に収めて「エッモ......」と呻きつつTwitterに載せればパターン化された感傷を味わうことだってできます。きしょいインスタのストーリーみたいですね。
ところで冬といえば、忘れてはならない催しがあります。毎年11月の中盤あたりから徐々に我々の生活圏に入り込み、街全体を赤と緑の二色に染め、「クソ陰キャはおうちでネンネしてな」とこちらに唾を吐きかけてくる、あの忌々しきクリスマスです。
僕の住む京都も毎年クリスマスが近くなると四条河原町のあたりがにわかにキラキラとしたムードを放つようになり、神仏はキリスト教の前に三つ指をついて降伏を余儀なくされるそうです。千年王城としての誇りはないのでしょうか。
とはいえ世界三大宗教の闇鍋みたいなこの現代日本において、『クリスマス』というイベントと宗教はもはや完全に切り離されているようにも思えます。ちょうどハロウィンが悪魔祓いとしての性格を失ってただのコスプレバカ騒ぎイベントと化してしまったのと同じです。
そうすると、いつの日か初詣やお盆も宗教的な性質をこそぎ落とされ、「新年で初めて友達と会う日」とか「田舎のおばあちゃんちで親戚と飯を食う日」とかになってしまうのでしょうか。僕は宗教を信じているわけでも何でもありませんが、そうなってしまったら少し物悲しいような気がします。
我々が気付いていないだけで、本来の意味を失ったまま慣習的に続けられている形骸化したモノというのは意外と近くに潜んでいるのかもしれません。
なんか深い話になりそうなので終わります。できることならずっと浅いところで生きていきたいですね。
さようなら。
旅いきてー(でも金なーい) - 9/16の雑記
しばらくぶりですね。まっちゃです。
前回の更新以降、東海に行ったり関東に行ったり中部に行ったり自宅に帰ってから実家にとんぼがえりしたりと、とにかくキーボードを触る機会がありませんでした。
そのため、これが二週間ぶりの更新です。もはや日記としての体を成していませんが、なんとなくここの存在を思い出したので書くことにしました。
といって何か書くことがあるかと言えば、それこそ旅行記くらいしかありませんが、三日間で五百枚の写真を撮ってしまうくらい濃い旅程だったためどうしても記事が長くなってしまいそうなので、書くとしてももっと纏まった時間を確保してから書きたいです。
旅に出たいです。
ついこの間行ってきたばかりだろ、と言われるかもしれませんが、むしろこの時の旅行がトリガーとなって『旅行したい欲』を司る脳の部位が動き始めた感じがします。
旅と言ってもヒッチハイクやら自転車日本一周みたいな過激なものではありません。単に飛行機や新幹線やフェリーなどに乗り、寺社仏閣や温泉などを訪れたいというだけのことです。
僕の言う『旅』など旅慣れた人からすればごくごく初歩的なものに過ぎないでしょうし、僕自身もそう思います。
それでも僕は旅がしたいです。
僕は子供の頃、飛行機に乗ったことがありませんでした。それどころか新幹線にすら乗ったことがなく、テレビで旅行客の姿を見るたび、どこか異国の様子でも眺めているような気分になっていたものです。
つまるところ、僕はこれまで、いわゆる旅行というものとはほぼ無縁の生活を送ってきたのでした。
初めて新幹線に乗ったのは中学の修学旅行の時ですし、初めて飛行機に乗ったのは高校の修学旅行でのことです。
前者は六年前、後者は二年半前の出来事ですが、それ以降、旅行と呼べるようなことは一度もしませんでした。
大学受験で東北には飛びましたが、これはあくまで試験を受けに行ったのであって、旅行とは言えません。
我が家が旅行をしなかった理由はいくつか考えられますが、中でも最大の要因はペットを飼っていたことでしょう。日帰りならまだしも、泊まりがけでどこかへ行くとなると犬たちをペットホテルへ預けなければなりません。
僕の親はペットを溺愛していたので、見知らぬ人間に犬たちを任せるのは、たとえ相手が動物の扱いに慣れたペットホテルの従業員であっても嫌がりました。
ならばペットも同伴できる宿を取れば良いのですが、そうすると旅先でできることに大幅な制限がかかりますし、そもそもどうやってペットをそこまで連れて行くのかという別の問題まで発生します。
こういった諸々の面倒や手間が重なった結果、我が家は旅行を断念し続けてきたのです。
しかし今の僕は一人暮らし。旅行をするのに金と時間以外の制約はありません。
今までどこにも行けなかった分、これからの大学生活数年間で様々な所へ出かけ、色んなものを見て回りたいものです。
そうすると新型コロナ感染症が心配になってきますが、あいにく僕には連れ立って旅行に出かけられるほど密接な関係の友人などおらず、移動は基本的に平日の間に行うため密集のおそれも少なく、屋外にばかりいるので密閉空間に留まり続ける心配もありません。
人間としては壊滅的な状況ですが、どこかへ出かけるにはこれ以上ないぐらいの境遇だと言えるでしょう。
皆さんもぜひ周囲の人間全員と縁を切り、快適なソロ旅行をしてみてください。ただしふとした瞬間にカップルや家族連れが視界に入って猛烈な希死念慮に襲われるので、それに耐えうるメンタリティを持った人だけにしましょう。
以上です。
書け書け書け書け - 9/2の雑記
創作をしなければならないと思っています。
なにも賞に応募するとか書籍化を狙うとかいう話ではなく、最近ぜんぜん書いてないな~と思い、このままうだうだと創作から逃げていては良くないと考えたにすぎません。
といって「よし書くか」と決意したぐらいで作品ができあがるならそもそも「書けない」などという事態には陥らないわけで、何か執筆するとしても良さげなアイデアが無いことにはどうしようもないのです。
ならばと思い錆び付いた頭を使ってどうにかネタを捻り出してみても、そのどれもがどこかで見たモノの劣化版でしかなく、如何に調理してもクソみたいな出来になる未来しか見えないために手が進まない。
なんだか勝手に道を迷って勝手に袋小路へ突っ込んでしまった感があります。
僕が最後に何かしらを書いて投稿したのは今年の五月ですが、このときアップした5000字ほどの短編は去年のうちに書き上げていたものであり、そういう意味では今年に入ってからまだ一度も投稿していないと言ってしまってもいいかもしれません。
元々大した量を書いていたわけでもありませんでしたが、それにしたってこれほど書かないというのはさすがにサボり過ぎているような気がします。
頑張って1000文字は書こうと思ったんですけどこれ以上書くことがちょっと思いつきませんでした。文章書いてないよねって内容のブログでこんなこと言うのはどうなんでしょう。
まあそんな感じで今回は短めです。年内には頑張って何かしらを書きたいですね。
さようなら。