俺の夏、終わっちまったよ2021 - 9/1の雑記
九月です。とうとう八月が終わってしまいました。
これから次第に暑さは鳴りを潜め、徐々に冬が近づいてくるのでしょう。やっとこの茹だるような酷暑から解放されるとあって清々しい気分がする半面、今年ももう三分の二が終わってしまったという事実にどこか寂しさを感じます。
夏休みが始まったばかりの頃、僕は休み中にやりたいことをいくらか考えました。やりたいことと言っても大層なものではなく、近所の寺社仏閣を見て回る、貴船の川床でご飯を食べる、下鴨納涼古本市に出かけるなど、どれも些細な計画ばかりです。
八月初頭、まだウキウキ気分だった僕は、間違いなくそれらをちゃんと実行するつもりでいました。休みが楽しみ過ぎて堪えきれず、母親に「今年の夏はこんなことをして遊ぶつもりだ」と電話してみたところ、「誰を誘うの?」と聞かれて泣いちゃったのも記憶に新しいです。
ところが蓋を開けてみれば、僕は立案した計画を一つも達成することができないばかりか、朝も昼も夜もベッドで寝てばかり。間違いなくここ数年で最も怠惰な夏を過ごしたのでした。こんなことなら僕を無理やり外へ連れ出してくれる涼宮ハルヒ的な友人を一人か二人くらい作っておくべきだったと後悔しています。
先程述べたとおり、既に今年も三分の二が過ぎ去ってしまいました。これから九月、十月、十一月と、年末に近づいてゆくにつれてどんどん寒くなり、木々の葉は枯れて地に落ち、焼き芋の軽トラが所かまわず押し入って飯テロリズムを敢行するようになる、そんな終わりの季節の始まりです。
とはいえ、冬が来るのはなにも悪いことばかりではありません。冬になると空気が澄み、ヤッカイな虫たちは死に絶え、コンビニ前に屯するヤンキーは軒並み氷漬けになり、子供たちが雪に狂喜乱舞する姿があちこちで散見され、ホットココアと肉まんが美味しく頂けるようになります。素晴らしいことばかりですね。
なんなら僕は四季の中では春の次に冬が好きなので、これからの季節はメチャクチャ楽しみだったりします。
汗もかかないし虫は出ないし、本当に素晴らしい季節なんですよ、冬って。あの本気で殺しに来ているような寒ささえ無ければ僕の中での四季ランキングはぶっちぎりで冬がトップだと思います。
そんな感じで新しい季節が楽しみだというお話でした。
とりあえず今秋の目標は『軽トラのおっちゃんから石焼き芋を買う』にしたいと思います。僕はただでさえ毎日カスみたいな運動量しか稼げていないので、食べ過ぎには気を付ける所存です。
さようなら。
我喜欢九龙城 - 8/31の雑記
どうも、まっちゃです。
また積読が増えてしまいました。今回購入したのは
- 品田遊『ただしい人類滅亡計画-反出生主義をめぐる物語』
- 品田遊『止まりだしたら走らない』
- 山口文憲『香港世界』
の三冊です。『止まりだしたら走らない』はもう電子書籍の方で購入していたので買わなくてもよかったのですが、なんとなく紙でも持っておきたかったので買ってしまいました。電子で買った意味がまるでありません。
今日はそもそもステイゴールドという競走馬に関する資料を探しに出かけたはずなのですが、お目当ての馬の本は一冊も見つからず、それどころか全く関係のない本を三冊も買ってしまうという優柔不断ぶり。つい先日も積読が増えたという内容の日記を書いたばかりだというのに、本屋へ出かけるとつい財布の紐が緩んでしまうのは僕の悪い癖です。
品田遊の本には他にも『名称未設定ファイル』という作品があり、どうせならこれも買って同じ作者の本を全部揃えたいところなのですが、この世のどこにも在庫がないためにフリマアプリで一冊5000円以上の値がついており、手を出すのは少し躊躇われます。
「さんざん読まない本を買っておいて何を今さら高いだなんだ言ってやがるんだオマエは」と言われてしまえば、それについては返す言葉もありません。
あと買ってから気づいたんですが、ステイゴールドが勝った最初で最後のGIレースが『香港ヴァーズ』なので、全く無関係な本を買ってきたというわけでもありませんでした。でも『香港世界』に『香港ヴァーズ』のことは一行たりとも出てこないと思います。やっぱり無関係なのでは?
僕がなぜこの『香港世界』を買ったのかというと、僕はもともと九龍城や上海租界といったちょっと退廃的でノスタルジックな雰囲気が大好きで、加えてこの本の帯にも九龍城のことが書いてあったからです。分かりやすく僕の好きな雰囲気の例を挙げるとしたら、藤木稟の『上海幻夜』に出てくる上海がそんな感じでしょうか。
ごく一部の方はご存知でしょうが、この本はあの東方Projectの制作者であるZUN氏が愛読していた本でして、東方という作品全体の雰囲気を構成する非常に大きな要素となっています。『美鈴』とか『橙』とか名前がそのまま使われているキャラも居ます。
こちらもそこそこの値段で中古が流通していた覚えがあったので、ブックオフの100円コーナーで投げ売られているのを見た時は目を疑いました。
僕が上海や香港といった土地に惹かれる理由は、東洋と西洋の生活や文化がごちゃ混ぜになった、一種のカオスのような状態があるからなのだと思います。
洋の東西を問わずに様々な文化が混在し、入り乱れ、渾然一体となりながらもやはりどこかで線が引かれているという一抹の寂しさこそ、僕が感じる感傷の本質なのかもしれません。
そんなわけで、また積読が増えちゃったよというお話でした。次こそはステイゴールドの本を買いたいところです。
まあ、わざわざ探し回らなくてもAmazonで買えるんですけどね。
僕の頭からは『Amazonで買う』という選択肢がなぜかすっかり抜け落ちてました。意味が分かりません。
以上です。
ナハ! - 8/30の雑記
どうも、まっちゃです。
昨日あれだけ生活リズムを改善する改善すると書いておきながら、結局また朝日とバトンタッチする形で床に就いてしまいました。
それもこれも深夜三時までグラブルのカジノに耽っていた僕が悪いのです。なんだかいつもいつもギャンブルばかりやっているような気がしますが、これが世に言う依存症なのでしょうか。
ギャンブルというのは中々難儀なもので、楽しむだけならトンチンカンでスットコドッコイでテケレッツノパな頭脳を持つ僕でも十分にできるのですが、ではギャンブルで勝って金を稼ごうという話になると、これは僕みたいな馬鹿じゃできません。
たとえば今なにかと話題の競馬で勝とうとすると、出走する馬の戦績や前走からの体重変化、移動による消耗やレース当日のパドックでの様子など、考慮すべき点がいくつもあり、なおかつ最後の最後は運が絡んでくるという、こうして書いているだけでもいくらか金をむしり取られているような錯覚を起こすほどの工程が必要です。
カジノで勝つとなるともはやこれは不可能に近く、マブい格好のチャンネーが次々に運んでくる酒でベロンベロンに酔っぱらった頭をフル回転させながらディーラーと駆け引きをしなくてはいけません。翌朝、身ぐるみ全部剥がされて路地裏に捨てられている自分の姿がありありと想像できてしまいます。
このとおり、本格的にギャンブルで金を稼ぐというのは、スタートチャッカーに無心で玉を突っ込むことだけに特化した僕の貧弱な頭脳ではとうてい無理なのです。いずれ馬券が買えるようになった日のためにと思い、いっときは競馬の予想を勉強していたこともあったのですが、これがビックリするくらい身に付かず、渾身の予想はことごとく外れ、もし金を賭けていたら大損間違いなしという散々な出来でした。
たぶん根本的に賭け事がヘタクソなのではないでしょうか。
みなさんもギャンブルで勝とうと思ったら、まずはちゃんと勉強をして知識をつけてからにしましょう。そもそもギャンブルで稼ぎを出そうとするなというお声もあるでしょうが、それは全くその通りで、あれは多少金のかかる趣味くらいに認識しておく方が精神衛生上よろしいのではないかと思います。
どうしてもギャンブルで儲けたいというのなら、胴元を目指すほうが手っ取り早いし確実性が高いので、是非そちらの方もご検討ください。
それでは僕はこれから『絶対に負けない!9割の人が知らない競馬の立ち回り方』という商材を買うためにAmazonギフトカードを購入してきます。
さようなら。
生活リズムがどういうことなの - 8/29の雑記
題に書いてある通り、生活リズムが激ヤバのヤバヤバです。
夏休みに入ったあたりからその兆候はあったのですが、ここ数日間の乱れっぷりと言ったらもう、広辞苑の『乱れ』の項に例として載せられてしまうレベルです。
朝4時に眠り、正午に起きだして、起きている時間の半分をベッドの上で過ごす。うちの学校に落ちてしまった人が見たら、「私ならもっとまじめに時間を使えるから私と代わってくださいよ」なんて言うかもしれません。
これはまずいと思って日付が変わる前に布団へ潜っても、枕もとのスマホをいつまでもいじくり回し、気が付けば窓の外が明るくなっている毎日。すべての元凶はスマホのアンチクショウのような気もしていましたが、この歳になっても自己管理すらままならない僕自身のだらしなさこそが最大の原因であるということはもはや論を俟たない事実です。
僕は自己管理が大の苦手でした。でしたというか今も苦手です。
夏休みの宿題は毎年必ず最終日まで持ち越すし、一月遅れで出すことも少なくありませんでした。かつてはこの悪癖が祟り、提出物を毎度忘れ続けた結果、埋め合わせとしてとんでもない量の課題を出されてしまったこともあります。
重要な書類を提出し忘れるとか、教師からの呼び出しを忘れるとか、そういった大ポカをやらかしたことも一度や二度じゃききません。
ここまでくると自己管理云々というより何か別の部分が欠損しているような気もします。といっても僕には足りない部分しかないので、どの欠損がどう悪影響を及ぼしているのかは全く分からないのですが。
しかしそんな風に自虐を挟んでところで、生活リズムが改善される訳でもありません。学校が再開されるまでは一か月近くの間がありますが、それまでにはキッチリこの自堕落な生活から抜け出したいと思います。そしてしっかり元の規則正しい生活に戻りたいです。
夏休みが明けたら、僕は毎日22時就寝の6時起床を心掛け、朝から近所をランニングし、健康的な生活を送ります。食事もなるべく栄養に偏りのないように摂取し、適度な運動と休養を習慣づけて、立派なウマ娘になれるようより一層の努力するつもりです。
以上、トレセン学園所属のシャカイフテキゴーがお送りいたしました。
さようなら。
タワー読 - 8/28の雑記
積読が増えてきました。
本屋で見かける本はどれも面白そうに見えて、ついつい何冊も買って帰ってしまうのですが、それらが自分の所有する本になった途端、なぜかぱったりと関心が無くなってしまうのです。ギャルゲーでヒロインを攻略した時の気持ちに少し似ているかもしれません。
そんなことをしているうちに、自宅の本棚はすっかり埋まり、今では新たに買ってきた本を直接床に積み上げるようになってしまいました。ちょっと頑張ればジェンガができるかもしれません。
名実ともにまさしく『積読』です。『D坂の殺人事件』に出てきた明智小五郎の家みたいになる日も遠くないのかもしれません。
ただ、僕の部屋の散らかり方の方向性としては、どちらかといえば坂口安吾に近いような気もします。部屋が汚い人、坂口安吾を引き合いに出しがち。
今日買ってきた本の中で最も面白そうなのは『奇想版 精神医学事典』という本です。オタクはみんな心理学や精神医学が好きですよね。僕も好きです。
この本は裏の解説に
五十音順でもなければアルファベット順でもなく、延々と続く「連想」の流れによって見出し語を紡いでゆく、前代未聞の精神医学事典。実用性よりもグルーヴを!
と記されているとおり、精神医学にまつわる多くの事柄を、一見するとハチャメチャな順番に並べてあります。
例えばこの本で一番最初に取り上げられている事柄は『神』で二番目が『隠された必然』なのですが、その次には何故か『アトランティック・シティー上空の空飛ぶ円盤』という項目がやってきます。なんで?
他にも『三つ子』の次に『興覚め』があったり、『小動物幻視』の次に『競艇選手』があったりと、具合の悪いときに見る夢のオールスターみたいな並び方になっていたのがとても愉快で、ペラペラと捲っただけで購入を決めてしまいました。
大学卒業までに読破できればいいなと思います。
それと、本屋で三秋縋の作品を少しだけ立ち読みしてきました。名前は前から知っていたけど読んだことのない作家だったので、期待が半分怖さが半分といった感じでしたが、読んでみた感想としては河野裕や住野よるあたりと同系統の作風なように思います。
この手の作品は主人公の鼻につく感じがどうも苦手で触れないようにしているのですが、今日読んだ『三日間の幸福』もそのタイプでした。
ただ、終わりの方は割と綺麗に幕を引いていて好きです。終わり良ければ全て良しとはこのことでしょう。人生もそうでありたいです。
上に挙げた二名のような作家が好きな人なら存分に楽しめるのではないでしょうか。
そんな感じで今日の日記は終わりです。もうじき夏も終わるということで、休みが明けるまでに、せめて一冊くらいは本を読んでおこうと思います。
どう考えても文学部生の言うことじゃありませんね。さようなら。
サボタゲ - 8/27の雑記
今週のお題「サボる」
どうも、まっちゃです。
なにやら便利そうな機能があったので使うことにしました。無理やりネタを引っ張ってきてまで書かなければならない日記に続けるだけの価値があるのかは正直微妙なところではありますが、まあ存在意義など元からあってないようなものなので気にしないでおきましょう。
僕は昔から大層なサボり野郎です。しかも目に見える形で堂々とサボるのではなく、「掃除の時間になんとなくそこら辺をぶらつく」とか「部活のランニング中、顧問の視界から外れた時だけ歩く」みたいに姑息なサボり方をする子供でした。
今思うと、あれらは全部バレていたような気がします。注意されなかったのはたぶんみんなが僕に見切りをつけていたからなのでしょう。
少々薄情なように感じられますが、仮に僕がクラスメイトや教師と同じ立場だったとしても、僕みたいなクソガキのことはさっさと見限って、金輪際関わらずにいると思います。
ちなみに「サボる」の原語はフランス語の「サボタージュ」で、これは作業能率を落として雇用者側に損害を与える目的で行われます。これに対し、そもそも作業を行わないことによって損害を与える行為を「ストライキ」と呼びます。
つまり、僕がふらっと姿を消して掃除を滞らせるのは「サボり」ではなく「ストライキ」だったというわけですね。
こうやって無駄に文章をかさばらせて読者の能率を落とすのは「サボタージュ」になります。
サボるというのは実に麻薬的な行為です。他人が汗水たらして仕事をしていたり、皺深い脳味噌を絞り上げながらベクトルを合成したりしている間に遊ぶスマブラの面白さは、普通の人間が一生に味わう快感の総量を遥かに上回るほどのものです。
そこまで言うとスマブラが景品表示法でしょっぴかれかねませんが、少なくとも普段遊んでいる時よりサボって遊んでいる時の方がずっと楽しいのは皆さんにも覚えのあることなのではないでしょうか。
ですが、麻薬に幻覚や幻聴などの副作用があるのと同じく、サボりにも一種の副作用があります。それは「サボりすぎるとやる気が根っこから消えてなくなってしまう」というものです。
これは実体験なのですが、高校三年生のある日、僕はなんだか死ぬほど学校に行きたくなくなってしまい、誰にも内緒で学校をサボってしまいました。そして次の日も、そのまた次の日も「気分が乗らない」という理由で学校を休んだ結果、僕は完全に気力を失ってしまい、学校に出て授業を受けることができなくなったのです。
このように、過度なサボりは破滅へと繋がっています。さらにタチの悪いことに、一度身に付いたサボり癖というのは、ちょっとやそっとじゃ消えないバッドステータスとして残り続けるのです。
「逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ」というガッツの台詞がすべてを言い表していると言ってもいいでしょう。
とはいえいつもいつでもフルパワーで生きていると、今度はさっさと寿命が来てくたばってしまうので、適度なサボりはやっぱり必要なんだと思います。掃除をサボった経験や部活をサボった経験も、きっと僕の役に立ってくれるはずです。
でも掃除をサボるのはただひたすら迷惑なのでやっちゃダメでしたね。ごめんなさい。
以上です。
日記について - 8/26の雑記
日記のフォーマットが決まりません。
僕の日記なのでまあ好き放題やればいいとは思うのですが、毎度毎度「どうも、まっちゃです。」から始めてダラダラよく分からない文章を書くのはそもそも日記と呼べるのでしょうか。
このまま「どうも、まっちゃです。」から書き始めていると、いつか二度と「どうも、まっちゃです。」以外の書き出しを使えなくなってしまうような気がしたので、今回はこんな変則的な形でスタートさせてみました。
どうも、まっちゃです。
人間はその人生において、いったい何度「今日からしっかり日記をつけよう」と決意しては諦めていくのでしょうか。たぶん「明日から早起きしてランニングしよう」と決意して諦める回数の倍くらいはあると思います。
身近に日記をつける決意をしたことのある人間が居ないので、他の人間がどうなのかは全く分かりませんが、僕はこれまでの人生で少なくとも二十回は日記を書く決意を固めました。
これはつまり、少なくとも十九回は日記を書くことに飽きたということです。
『日記』と一口に言っても、そう毎日都合よく書くことが浮かぶわけもありません。
特に僕は起床→ゲーム→アニメ→昼飯→ゲーム→動画→就寝を未来永劫に繰り返し続けるだけの大学生なので、日々の生活をそのまま書いていては金太郎飴のように同じ文章ばかりが続くことになってしまいます。書いてて思ったんですけど、マジでカスみたいな夏休み送ってますね。
そうして「今日はわざわざ書き残すようなことも無かったな」という日が三日ほど続いてしまうと、それを境に日記なんて書くのをやめてしまうのです。
どうすれば日記をやめずに済むのでしょうか。小学生の時に夏休みの宿題で日記を課されてから、僕はずっと疑問に思ってきました。
そして大学生になった今でも、日記を継続するコツというか、秘訣のようなものが全く分かりません。というか単に書くネタがありません。
いっそ、日記を書くためだけに、毎日変なことをして生きてみるべきなのでしょうか。「バケツでねるねるねるね作ってみた」とか「でっけえメントス作ってコーラ注いでみた」とか、そういう駆け出しYoutuberみたいなことをずっとやっているべきなのでしょうか。そうすれば少なくともネタに困ることはなくなります。
その代わり僕は一生を日記に捧げるつもりで生きていかなければなりません。このように、日記は隙あらば人間の生活を乗っ取り、主導権を握ろうとしてきます。
日記による人類の支配は既に始動しているのです。日記帳がこの地球上に独自の文明を築くのも時間の問題と言えるでしょう。
信じるか信じないかはあなた次第ですが、こんな与太話なんて信じない方が幾分かマシだと思います。
さようなら。